「グリザイアの果実、組み込まれたホモセクシャル」
電気屋さんにパソコンを見に行くと、ものの数が多すぎて、どれが良いのだかよくわからなくなる。そこで参考になるのは、値段やそのパソコンの機能を示す数値の記載された、小さなペーパー/パネルである。それぞれのパソコンの数値を比較し、その作業に慣れてくれば=目が肥えてくれば、そこでようやくパソコン選び、ということになるだろうか。もともとそうした数値に興味がない、または信じていないひとは、まっさきに店員をつかまえ、自分の欲しいパソコンの概要を言って、準備してもらう、といったこともあるだろう。とはいえ、こうした概要を伝えるためにも、ある程度の数値は必要になる。ものに与えられた、または結びつけられた「数」は、ある場面ではかなり重要になる。
同じように、ある学校を受験するときもそうだろう。返ってきた模試の結果が悪かったら、「人間は数字じゃ測れない!」と叫びたくもなるだろうが、残念ながら、受験と言うものは、そういうものだ。ただ、多くのゲーム愛好家が言うように、ゲームにおいて「数字は嘘をつかない」。こういうとき、数字とは、人々にとってじぶんの成したことがそのまま反映されるような、素直で飼いならされたものとして、考えられている。かなりの頻度で、数字と論理は結びつけて語られる。「理系」としてふるまう人は、あたかも「論理的で数学的」とコード化されるようなキャラクターを担う。
「数」を表すこと、「数」をなにかに結びつけることは、ゲーム映像の中でも行われる。そして今回紹介する『グリザイアの果実(2011)』の場合には、それが隠蔽されたホモセクシャルを「チラ見せ」しているようにさえ、私には思える。
https://www.youtube.com/watch?v=71LlLVtqrBA
こうしたゲーム映像のクリシェのひとつに、「キャラクターの情報をたくさん載せる」といった表現がある。この作品では「キャラクター名、声優名、3サイズ、誕生日、血液型」が挙げられているが、ほかにも様々な表現方法がある。このことはまた別の機会に書いてみたい。
『グリザイアの果実』でも、クリシェを踏襲し、かつすばらしい編集技術でスタイリッシュな画面を作り上げているのだが、ひとつ気になる点がある。つまり、ほとんどのゲームデモ映像で「男=主人公」は、こうした「キャラクター紹介」には取り上げられないのだが、この作品ではちゃっかり入っている。公開される情報としては「身長と体重」だけではあるが、ヒロインたちの紹介とは完全に距離を置き、しかも曲のサビにおいて、主人公が大々的に喧伝/宣伝されている。
こうした「キャラ紹介」の映像と冒頭の例を合わせて、「商品カタログとしての映像」を考えても良いと思うのだが、そうした文脈で観ると、「攻略できるキャラクター」というまとまりの中に、主人公が組み込まれているように感じる。これは、主人公を一種の「英雄」として考えるストーリー自体の語り方とも繋がってくるとは思うし、この読み方が穏当なのだろうが、もう一歩くどい考え方をしてみたい。つまり、「女性の記号化」としてある「ゲーム映像=商品カタログとしての映像」において、「英雄的な主人公」が「所有される=飼いならされるべき記号」として与えられているのではないだろうか。すなわちこの作品は、「ヘテロセクシャルの楽園」としてのギャルゲーにおいて隠蔽され、普段は顕在化することの無い、「英雄的主人公とのまぐわい=同一化への欲望」が素直に反映された例ではないか、と読んでみたい。
という暫定的な読み方/見方を提示してみたところで、今回は終わりにする。話が大きくなりすぎるのと、他の例を見つけてみたいと思ったからだ。ともかく、この記事を読んだ方は、ぜひ「キャラ紹介」というクリシェに注目してもらって、目利きになってもらいたい。そして、私にあった作品を教えてください。